【編集長ブログ】追悼ジャン・ルイ・シェレル、企業買収とメゾン創業デザイナーの栄枯盛衰

2013.06.22

ジャン・ルイ・シェレルが20日亡くなった。ブランドの名前をニュースで見たのは、2009年にパリ・モンテーニュ通りの店がクローズしたのが最後だった。

個人的にジャン・ルイ・シェレルが強く記憶に残っているのは1990年5月に行われた東京でプレタとオートクチュールのショーのため来日したときのこと。オフに京都を観光したいとのことで、当時所属していたファッション紙の表紙撮影を兼ねて、京都の案内役を任された。

「骨董を見たい」というリクエストで、ちょうどオフ日が21日だったので、弘法さん(東寺)の市を朝から案内。昼に龍安寺で撮影というスケジュールだったのだが、長女、次女を含め、総勢10名を超えるパリからのスタッフと、日側のお付きの人々の数の多さに驚かされ、刀や火鉢などシェレルの散財に呆れたのを覚えている。

この来日はセゾングループがエルメス社と共にジャン・ルイ・シェレル社に出資したことでも話題を集め、当初日本ではセゾングループ側からの社長就任ということだったが、フタを開ければジャンルイ・デュマ・エルメス社長の就任が発表された。そして、その2年後の92年にシェレルはデザイナーを解任され、事実上、メゾンの運営から離れることになった。

歴史を振り返ると、ラグジュアリーブランドの買収に伴い、創業デザイナーが自らのシグニチャーブランドをデザインする権利を失うというセンセーショナルなニュースはこれが最初だったように思う。

このシェレル以降、同様の事例は92年のEU統合と共に、90年代後半からクリスチャン・ラクロア(Christian Lacroix)、ジル・サンダー(Jil Sander)、ケンゾーKENZO)、ヘルムート・ラング(Helmut Lang)などコングロマリットによるM&Aのニュースの後に、決まり事として相次いだ。ケースは少し違うが最近話題になったアベイシングエイプ(A BATHING APE®)NIGO®のフリーランス宣言も、ファッションビジネスにおいてはこの一連の文脈だ。

ちなみに取材したこの90年のシェレル京都滞在記事の次のページは、89年末にパリ株式市場でLVMH株式を劇的に買収し、4月にLVMH会長の座についたばかりの若きベルナール・アルノー(Bernard Arnault)のインタビュー記事だった。
画像提供:Getty Images
野田達哉
  • ジャンルイシェレルの代表的なプレタスタイル、1991SSパリコレクションから
  • 1992SSプレタポルテコレクション
  • ジャン・ルイ・シェレル
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