【日本モード誌クロニクル:横井由利】初めて明かされたヴォーグコード1--2/12後編

2014.02.14

プレス発表から長い準備期間を経て1999年7月28日『ヴォーグ ニッポン』は創刊した。表紙は、ケイト・モスと日モデルミキのモノクロの写真(クレイグ・マクディーン撮影)にショッキングピンクのタイトル「ヴォーグ ニッポン」が載せられていた。

モード誌にかかわるものにとって、いよいよ新しい扉が開かれるのだという期待感でいっぱいの瞬間だった。逸る気持ちでページをめくると、片観音開きのエスティ ローダーのマルチ広告は、創刊をお祝いするメッセージ付きの特別バージョンになっていた。

エディターズ レターでは、世界の境界線が薄れボーダレスになっていく時代に「ヴォーグ ニッポン」は世界と日本を繋ぐ架け橋となると、創刊編集長の十河ひろ美(※)は宣言した。

編集者としては、どんなスタッフがこの雑誌を作っているか一番気になるところだ。欧米なら巻頭に鎮座するスタッフリストが、ここは奥付と呼ばれる日本のしきたりに則り、巻末にあった。日本人に混じって、外国人の名前が連なっている。

ビジュアルばかりか、編集内容にかかわる部分にまで発言権を持つクリエーティブ ディレクターに、VOGUE SPAINからやって来たデビー・スミス、コンデナスト・インターナショナル(ヴォーグ ニッポンはこの下にある)の会長ジョナサン・ニューハウスの懐刀として送り込まれたインターナショナル ファッション ディレクターのジーン・クレール、海外のフォトグラファースタイリストをブッキングするアンディー・ウェランと、多国籍スタッフを含む編成となっていた。会長、社長を始め、新しいポジションのスタッフも含め、49名の名前が連なるスタッフリストだった。

ここでも、会議はすべて英語で行われているとの噂が立つが、実際は英語を交えた会議というのが正しかったようだ。ただ、海外とのやり取りが多いので、英語は必須であった。

デザインの現場』(美術出版刊)1999年6月号は、フォトディレクションの特集を組み創刊を1ヶ月後に控えたヴォーグのクリエーティブ面についてインタビューしている。

十河編集長は、『ヴォーグ ニッポン』はスタイルを示すことが大切で、そのスタイルというのは表面的なものではない。女性の内面を表現するために服やメイクがあり、その女性像を敏感に感じ取るフォトグラファーによって完成する。それぞれのジャンルのクリエーターの創造性に負うところが大きいと語っている。

クリエーティブディレクターのデビー・スミスは、年齢に関係なくヴォーグの精神を共有できる、気が強く少しアグレッシブでありながら色気もあると、VOGUEの女性像を描いてみせた。また、フォトディレクションは化学実験といい、写真家とスタイリストの組み合わせしだいで思い掛けない化学反応が起こり、素晴らしい作品になる場合もあると語っている。彼女が言う写真家とは、UK やITALIAやPARIS VOGUEで活躍しているほんの数十人のフォトグラファーやスタイリストを差しているのだ(US VOGUEは更に別格で、契約により他のVOGUEでさえ仕事はしないことになっている)。現に創刊号では、表紙を撮ったクレイグ・マクディーン、その号のコアになるウエルと呼ばれるページでは、PARIS VOGUEで活躍中の七種諭、パオロ・ロベルシ、荒木経惟というラインアップとなった。

日本人フォトグラファーに対する印象を「技術もあり何でもこなせる用さもあるが、スタイルを持っているのは荒木さんやHIROMIXなどごく一部だ」とデビー・スミスは答えている。彼女の言葉は、世界を目指す日本人の若手フォトグラファーを大いに刺激した。

※十河ひろ美は、現在ハースト婦人画報社『25ans』『Richesse』編集長
参考文献:デザインの現場(美術出版)1999年6月号

3/12に続く。
Yuri Yokoi
  • VOGUE JAPAN 1999年9月号
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