高橋悠介がイッセイミヤケメンデザイナーに就任するまで3/4―技術にあこがれ、入社を果たす

2013.09.04

だが、そのカレッジの目的はアート作品の制作だった。テキスタイルも一つのアートの媒体としてとらえられていた。その上、お互いの作品の文脈をいかに読みとるかという点に重きを置いた内容。つまるところ、人を蹴落としてまでアートの分野で成功を狙う若者達の集まり、という勇ましい精神が割拠する環境だった。当然のことながら、精神的にかなりもまれる。反面教師的だが、どんなことを言われてもネガティブにならない、タフな精神が育まれたに違いない。

コンセプトの検討が優先され、一向に制作が進まない授業、そして、現実的にものを作る技術が欠けていることも不安を覚え始める。折しも、クールジャパンの波がロンドンにも押し寄せてきていた。「リバティ百貨店に並んでいるのは、ナンバーナイン(NUMBER (N)INE)やアンダーカバーUNDERCOVER)とか日ブランドばかり。一番熱いのは、日本なんじゃないか。イギリスにいても、もう意味がないな、という感覚になりました」と振り返る。

また、論文でもアニメを引き合いに出せば、絶賛されてしまう。「このままロンドンにいると、日本のサブカルチャーをミックスすれば、それだけで評価されてしまう。それは、自分のアイデンティティーを評価されることとは違うと思いました」と、自分の置かれている状態を客観的に分析するもう1人の高橋がいた。そこで、「縫製とか、技術を教えているというので、文化服装学院へ行こう」と決心する。雑誌の発信のままにファッションを追っていた少年が、海外で暮らすと否が応でも突きつけられることだが、いつしかアイデンティティーを自らに問いかけるようになっていた。

ロンドンでの経験は、後々様々な面で役立ってくる。「レポートを週に4回位書かされるクリティサイズの授業で、英語を死ぬほど勉強した」のもその一つだ。高橋は、パリのデビューショーの後に通訳なしでインタビューに答えていた。いつ英語を勉強したのかと疑問に思っていたが、これで合点がいった。インターナショナルに仕事をするには不可欠な英語という武も手にしていた。

「世界と戦うためには、技術を磨かないとだめだという思いがあって、イッセイミヤケに入ろう」と考え始める。「もう一つ、全く別の文脈としては1・2年生の時にイスにも興味があり、イームズに憧れた時代があって、その時に吉岡徳仁のハニーポップに出合ったんです。すごいイスだなと思って、経歴をよく見ると、三宅デザイン事務所と書いてあるわけですよ。ファッションが違うなと思ったら、吉岡さんみたいにできるんじゃないかと。21_21デザインサイトもできたし、面白いことをやっているなと思いました」と、まだ迷いがあったことを含ませる。ファッション=衣服という分野が、自分に適しているのか、才能があるのか、不安が残っていたようだ。

2009年4月に装苑賞を受賞し、中旬には、そうそうたるメンバーの前で面接があった。目標を定めた高橋は、「学生とプロのデザイナーとの差は作品でなく商品も作れるところ。装苑賞のテイストを、着られる服に落とし込んだアイテムを追加で製作しました」と、10着ほどの作品を新たにプレゼンしている。「イッセイミヤケに入るために、装苑賞を頑張ったという方がいいかもしれません」と高橋。焦点が定まった時の実行力はさすが。正直言って、気が多いと思えた性格だが、その分集中した時のパワーが凄い。逆に長所に見えてきた。

めでたく、入社が決まる。7月からは現在イッセイミヤケのデザイナーであり、文化学園の先輩でもある宮前義之のもとで、指導を受けることになる。テキスタイルを勉強し、ロンドン時代にA-POCなどイッセイミヤケの服の知識はあったものの、さらに繊維の深さも学ぶ。例えば、しわのジャケットといっても、糸の撚りや加工などいろいろな方法があるように。

4/4に続く
清水早苗
  • ショー終了後に英語で報道陣に答える高橋悠介氏
  • イッセイミヤケメンデザイナーの高橋悠介氏
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